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本当にただの日記

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朝。またも電車遅延。
出勤時間ぴったりに着いてこれ遅延証明出さなきゃいかんのかなー、面倒臭いなーなどと思いながら始業。

昼休憩、弁当を食べ終えコートを羽織って出かける。北澤平祐の個展へ。ギャラリーが会社から歩いて10分もかからない場所だったので、最終日だしと慌てて見に行ったのだ。最終日ということもあってか小さいギャラリーの中は盛況であった。
「さらのえ」ということでこんな皿があったらいいな、という絵付けの元絵みたいな作品たちが展示されていた。UK版「ねじまき鳥クロニクル」ハードカバー愛蔵版のカバー原画も見ることができて嬉しい。(ねじまき鳥、高校時代に読んだけどあまり内容が思い出せない。中編の途中まで結構読むのがきつかったけどそこから怒涛の面白さになった、という記憶だけが残っている。)

帰り道、思ったより時間があったので、<ののあおやま>を折坂悠太の「平成」を聴きながら散歩して帰った。紅葉と青空と冬の柔らかな日差しが相まって、スカッとした美しさがあって良いなあと思った。日向のベンチには人間が集まっていて、生き物は陽光の恩恵には抗えないのだなあと実感する。

会社に戻って仕事して、30分くらい残業して帰宅。

夕食。また桂花陳酒を飲む。少し時間があったので旦那とCPU入れて友人戦半荘1回だけやって切った瞬間に気付く明らかなミスをして凹むなどした。

全然不勉強でわからないんだけど、情報がデジタル化されているなか何百年後に記録を残していく手段ってどうやっていく予定なんだろうということを考えていた。データであるより紙の方が劣化しながらも残るんじゃないかとか直感的には思ってしまう。
それでも歴史学で扱う範囲のことは偉い人が残す手段を考えて残すんだろうけど、民俗学の範囲で扱うようなところや言語学における用例みたいな我々庶民の普通の暮らしや言葉がキーになるものって消えていってしまわないのかしら。
こうやって私がどうでもいい日記を書いていることも、何百年後まで残っていれば、当時の人々の暮らしがわかるものの一端になるんじゃないかなと思う。その時に例えばTwitter(X)みたいなものが全て消えてしまうんだとしたら大きな損失になりそうだよなと。

先日話題になっていたオタク語辞書「大限界」に関してちょっと炎上めいたことになっているのを見たとき、今現在の自分たちの視点で考えてる人が多いんだなという気付きを得て面白かった。個人的には、普通の人が日常会話(web上での文でのやり取りも含めて)で使っていた言葉が紙として残っているのって私が未来の研究者だったらすごくワクワクするというのが第一印象だったので、そこまで厳密性は求めなくてもいいんじゃないかという感想を持った。言語は揺蕩い、形を変えるものだからこそ、瞬間を収めることそのものにも十分意味があるんじゃないかなと思う。もちろん昨日書いたように、物見遊山でやってくる部外者に荒らされたくないと言う気持ちもわかるんだけど。

私は、自分が自分の人生を生きている実感をなるべく持たずにいたいと思っているので(世界に対して作用しようと思いたくない、したくなくてもどうせしてしまうから)使命感みたいなものが希薄である。(実際元々は使命感が強い方だったんだけどなくなったというかなくしたくなった。このことについてはまたいずれ考えたい。)
だからなのか、俯瞰で、それも3次元じゃなく4次元の俯瞰の目で見ていることが往々にしてあるように思う。人間の営みは全て大きな歴史の一部であって、変えようと思って変わらないこともあれば、変えようと思わずに変わってしまったこともある。そうやって生きている人々を自分の命が続く分だけ参与観察できたらそれでいいなあ、とか考えているから前述のような「自分ごと」の意識があまりないのかもしれない。何十億年も「なにかが起き続けている」こと自体が面白いなあと思う。そこに自分がいる必要も特に感じていないけど。