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本当にただの日記

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朝電車遅延で少し遅刻。
チームでnotion使うようになったのでぽちぽちいじる。こういうの楽しくて好きなんだけど結局持て余すんだよな…(個人的に使っているnotionは完全に持て余している)

昼、弁当食べたあと目薬買いがてら散歩へ。
青山一丁目のあたりまで歩く。外苑前の銀杏並木が綺麗だった。

講習で出した大量のアイスティーが大量に余ったため水筒に汲んで飲む。量が多いものって面白い。この感覚に気付かされたのはリンカーンの巨大化シリーズだったなと思った。

仕事早めに終えて渋谷に友達の誕生日プレゼントを買いに寄って、帰路。電車内で連盟A2リーグとMリーグを交互に再生しながら帰る。電車内の電波ってもうちょいどうにかならんもの?
ほどんど止まっててちゃんと観れなかったけどたろうさんがトップとってよかった。内川さんも途中苦しんだけど結果的には総合順位2位のまま最終節に行けるし、よかったなあ。

旦那が作ってくれたご飯食べる。麻婆大根。とても美味しかった。中華ということで友達にもらった桂花陳酒ハイボールにして飲む。紹興酒っぽい香りとシロップ的なとろりとした甘味のニュアンスが好ましい。

食後に風呂に浸かる。冬場は毎日湯を張りたくなってしまう。でも風呂に浸かるって贅沢だよな。水道ガス電気全部使うし。学生の時ライフラインが止まるたびにそんなことを考えていた。

今日旦那と話していて思ったけど、私、麻雀別に勝ちたいとあんまり思ってないんだよな。元々競争心が薄くて、スマブラとかマリカーみたいな対戦のあるゲームもあまり得意じゃなかったし、大人になってからもボードゲームみたいなものをやろうって言われてもほとんど避け続けてきた。スポーツもやりたくないし。(観るのは好きだけど)
負けたら悔しいけど、勝ったら勝ったで気を使ってしまうのが嫌だった。(喜び方がよくわからない。喜びすぎても大人気ないけど無反応だとそれはそれで感じが悪いし、謙遜されるのも嫌なんじゃないかと思うし、煽ったりする気やすいコミュニケーションも上手に取れない。)

じゃあ何が楽しくて今麻雀やってるのってなったら、「勉強したことができるようになる」ところに尽きる。本読んだり動画観たり教室に行ったりして得た知識を知識のままではなく手足のように使えた時の快感。

例えば5+8は13なわけだけど、子どもに最初算数教える時って5を2と3に分けて8に2がくっついて10の塊になるよと言ってみたり、5+5+3に分けて見せたりするじゃないですか。でもいずれ5+8を見た瞬間に13が浮かぶようになるわけで。

そういう風に、麻雀覚えたての頃は34567の並び見ても34/567と345/67に分けてみてようやく258の三面張だって気が付くみたいな思考フローを辿ってたのが、いつの間にか考えなくてもできるようになって、みたいなことが次々と起きていく。
そういう「知識を使えるようになるまでの一連の流れ」がいろんなところで起きてこれはちょっとうまく打てたなあみたいな気持ちになるのが楽しいって感じですね。

ただ麻雀は運が絡んでくるので正解不正解が必ずしも結果に直結しないのがメンタル削れていくところ。これが受験勉強だったら正解したら真っ直ぐ得点になるのにね。

ここで勝利に価値を感じていないのが悪い影響を与えていて、初心者だから正解か不正解か判別できず、たとえ結果が出たとしても間違ってたんじゃないかって疑心暗鬼になってどの状況下においても楽しく思えないんだよな。なんでやってるんですか?

実際その答えは自分でもよくわからん。自分の苦手としてきたことを克服したいという気持ちもあるし、もう後戻りできないところまで来てしまった感もある。趣味を適当にやるのができなくていつも苦しむ羽目になってしまう。

そう、趣味を修行にしてしまうんです。いつだって。
そしてそれが辛くなってしまう。もうお笑いは観れなくなっちゃったし。どうやったら楽しく生きられるのかがわからない。

ゆる言語学ラジオに川原繁人先生が出て日本語ラップの話をしているらしい。まだ観れていないけど楽しみだ。
私は川原先生の研究を面白く思うし、好きなものと好きなものが繋がるのは嬉しいなあと思っているけど、川原先生の研究をよく思わないHIPHOPヘッズや関係者もいるんだろうなあと思う。

なんでも学問の目線で見ることに疑問を持つ気持ちもわからんでもない。で、そういう学問を振り翳した人たちが物見遊山でぞろぞろとやってきては無遠慮にあーだこーだ論じて帰っていく、みたいな様子は私も方々で見たことがある。そりゃ気楽に楽しんでいた人や生活とイコールになっているような人からすれば気分が良いものではないだろう。もちろん川原先生は自身もヘッズだしそういう無配慮な方ではないのはわかっているけど、それに感化された人を選ぶことはできないわけで、もやもやするなあという人を悪くいう気持ちは起きないんです。

でも日本語というか言語なんていう人々が無意識に運用していて放っておいたらあっという間に形を変えてしまうもの、記録して分析しないでどうする?という気持ちもある。ちょうどゆる言語のオノマトペ編を観ているので、みんな無意識でこんなに体系的に運用してるの凄すぎんかという気持ちがあるからよりそう思うのかも。まあでもそんなことをXには書かずにいる。Xではどうせまともな議論なんかできないのに巻き込まれたら嫌だから…全体的にそのスタンスでどっちつかずをフラフラとやっているが、これは狡いんだろうか。noteやブログを有料にする人の気持ちはわかる。野放しって怖いよな。