文字列

本当にただの日記

1212

 

朝電車遅延で少し遅刻。
チームでnotion使うようになったのでぽちぽちいじる。こういうの楽しくて好きなんだけど結局持て余すんだよな…(個人的に使っているnotionは完全に持て余している)

昼、弁当食べたあと目薬買いがてら散歩へ。
青山一丁目のあたりまで歩く。外苑前の銀杏並木が綺麗だった。

講習で出した大量のアイスティーが大量に余ったため水筒に汲んで飲む。量が多いものって面白い。この感覚に気付かされたのはリンカーンの巨大化シリーズだったなと思った。

仕事早めに終えて渋谷に友達の誕生日プレゼントを買いに寄って、帰路。電車内で連盟A2リーグとMリーグを交互に再生しながら帰る。電車内の電波ってもうちょいどうにかならんもの?
ほどんど止まっててちゃんと観れなかったけどたろうさんがトップとってよかった。内川さんも途中苦しんだけど結果的には総合順位2位のまま最終節に行けるし、よかったなあ。

旦那が作ってくれたご飯食べる。麻婆大根。とても美味しかった。中華ということで友達にもらった桂花陳酒ハイボールにして飲む。紹興酒っぽい香りとシロップ的なとろりとした甘味のニュアンスが好ましい。

食後に風呂に浸かる。冬場は毎日湯を張りたくなってしまう。でも風呂に浸かるって贅沢だよな。水道ガス電気全部使うし。学生の時ライフラインが止まるたびにそんなことを考えていた。

今日旦那と話していて思ったけど、私、麻雀別に勝ちたいとあんまり思ってないんだよな。元々競争心が薄くて、スマブラとかマリカーみたいな対戦のあるゲームもあまり得意じゃなかったし、大人になってからもボードゲームみたいなものをやろうって言われてもほとんど避け続けてきた。スポーツもやりたくないし。(観るのは好きだけど)
負けたら悔しいけど、勝ったら勝ったで気を使ってしまうのが嫌だった。(喜び方がよくわからない。喜びすぎても大人気ないけど無反応だとそれはそれで感じが悪いし、謙遜されるのも嫌なんじゃないかと思うし、煽ったりする気やすいコミュニケーションも上手に取れない。)

じゃあ何が楽しくて今麻雀やってるのってなったら、「勉強したことができるようになる」ところに尽きる。本読んだり動画観たり教室に行ったりして得た知識を知識のままではなく手足のように使えた時の快感。

例えば5+8は13なわけだけど、子どもに最初算数教える時って5を2と3に分けて8に2がくっついて10の塊になるよと言ってみたり、5+5+3に分けて見せたりするじゃないですか。でもいずれ5+8を見た瞬間に13が浮かぶようになるわけで。

そういう風に、麻雀覚えたての頃は34567の並び見ても34/567と345/67に分けてみてようやく258の三面張だって気が付くみたいな思考フローを辿ってたのが、いつの間にか考えなくてもできるようになって、みたいなことが次々と起きていく。
そういう「知識を使えるようになるまでの一連の流れ」がいろんなところで起きてこれはちょっとうまく打てたなあみたいな気持ちになるのが楽しいって感じですね。

ただ麻雀は運が絡んでくるので正解不正解が必ずしも結果に直結しないのがメンタル削れていくところ。これが受験勉強だったら正解したら真っ直ぐ得点になるのにね。

ここで勝利に価値を感じていないのが悪い影響を与えていて、初心者だから正解か不正解か判別できず、たとえ結果が出たとしても間違ってたんじゃないかって疑心暗鬼になってどの状況下においても楽しく思えないんだよな。なんでやってるんですか?

実際その答えは自分でもよくわからん。自分の苦手としてきたことを克服したいという気持ちもあるし、もう後戻りできないところまで来てしまった感もある。趣味を適当にやるのができなくていつも苦しむ羽目になってしまう。

そう、趣味を修行にしてしまうんです。いつだって。
そしてそれが辛くなってしまう。もうお笑いは観れなくなっちゃったし。どうやったら楽しく生きられるのかがわからない。

ゆる言語学ラジオに川原繁人先生が出て日本語ラップの話をしているらしい。まだ観れていないけど楽しみだ。
私は川原先生の研究を面白く思うし、好きなものと好きなものが繋がるのは嬉しいなあと思っているけど、川原先生の研究をよく思わないHIPHOPヘッズや関係者もいるんだろうなあと思う。

なんでも学問の目線で見ることに疑問を持つ気持ちもわからんでもない。で、そういう学問を振り翳した人たちが物見遊山でぞろぞろとやってきては無遠慮にあーだこーだ論じて帰っていく、みたいな様子は私も方々で見たことがある。そりゃ気楽に楽しんでいた人や生活とイコールになっているような人からすれば気分が良いものではないだろう。もちろん川原先生は自身もヘッズだしそういう無配慮な方ではないのはわかっているけど、それに感化された人を選ぶことはできないわけで、もやもやするなあという人を悪くいう気持ちは起きないんです。

でも日本語というか言語なんていう人々が無意識に運用していて放っておいたらあっという間に形を変えてしまうもの、記録して分析しないでどうする?という気持ちもある。ちょうどゆる言語のオノマトペ編を観ているので、みんな無意識でこんなに体系的に運用してるの凄すぎんかという気持ちがあるからよりそう思うのかも。まあでもそんなことをXには書かずにいる。Xではどうせまともな議論なんかできないのに巻き込まれたら嫌だから…全体的にそのスタンスでどっちつかずをフラフラとやっているが、これは狡いんだろうか。noteやブログを有料にする人の気持ちはわかる。野放しって怖いよな。

1210-日記祭・SANABAGUN日比谷野音

日記を書くのに何が一番いいのか決めあぐねている。まずアナログかデジタルか。そして公開するかしないか。手書きには手書きの良さがあると思うけど、タイピングと違って書いたり直したりするのが面倒で内容が浅くなってしまう感じがする。デジタルだと、見直しやすいし編集がしやすい。でもキーボードならいいけどフリック入力は苦手なんだよな。書く時間が減っちゃう。あと公開するかしないかだけど、公開するとなるとやっぱり他人に見せる前提で書くから手を入れなきゃならなくて書けること書けないことの精査とか誤字脱字チェックとかめんどくさい。あとnoteのUIが苦手。はてなブログはまだいいけど、結局純正のメモアプリが一番好きということで今メモアプリに書いている。公開するとしたらこれをコピペするみたいなことになりそう。
↑これだけの内容手書きで書いたら多分もう疲れちゃってるだろうな。

さてなんで日記つけようとしてるかというと、下北沢の日記祭に行ってきたから。日記祭っていうのは、日記の文学フリマみたいなやつ。マンスーンさんと古賀及子さんがトークショーをするということで旦那と連れ立って観てきたのだ。(←人に見せる前提だとこういう補足も入れなきゃいけないよね。個人的な日記だったら「日記祭に行ってきた」だけでいいのに。)
全然準備が間に合わなくて開始30分後くらいについたけど流石に立ち見。

内容は想像以上にめちゃめちゃ面白かった。以下覚え書き。

  • 影響を受けた日記は、マンスーンさんは中原昌也「作業日誌」古賀さんはスズキナオさんのブログ。武田百合子富士日記」の話も出ていた。
  • 日記だけを扱っている「月日」はすごい。あれだけ人の生活が詰まっていたら怨念めいたものがありそう。
  • マンスーンさんのZINEの装丁について。上下を間違った。今回のツイートをまとめたものについてはあえて文字を小さくしたかった。文字がでかいとバカみたいだから、というのもあるけど、ひとの生活をこの手にするならぎゅっと詰まってる方がよいと思った、と言っていてすごくよかった。
  • 古賀さんはタレントでもない自分が出版社から日記を出版して「ざまあみろ」という気持ちがある。というのが面白かった。
  • 質問していた方々、すごく芯をくった質問していてすごい。暗い話の方が書きやすい、という方にわかるわかると頷いてしまった。古賀さんとマンスーンさんはそういう気持ちがあまりなさそうだった。
  • 日記を毎日書いているとやる気にムラはでないか?という質問。マンスーンさんは時間を決めてやっているらしい。あと2人から、とりあえずかくのがよいという話も出ていた。とりあえず書いてみて、冒頭の400字くらいは捨ててもいい。これはなかなかすごいなと思った。確かに、助走の部分があってもいいし消してもいいのか。最初から作品を作ろうとする必要はないのか。「とりあえず手を動かせ」というのはよく聞くけど、作品として意味がなくてもいいっていうのは意外と誰も言ってくれなかった気がする。

終わってそのままご飯にする。私はルーローハン、旦那はスリランカのカレー。それぞれビールも飲む。食べてる途中近くをマンスーンさんがうろついていて、実は初めて間近で見るのでソワソワした。しかも斎藤充博さんもお子さん連れで来ていて(育児漫画を読んでいるのでのんちゃんだ!と思った)横で2人で話し出したから大層緊張した。でも特に声もかけず。屋外のスペースに入ったらphaさんがいたり、インターネットで生きてきた人間にとっては「有名人だ!」という気持ちであった。

本屋B&Bにも寄る。まあ好きだよねというラインナップ。
言語学のコーナーは明らかにゆる言語学ラジオの影響を感じさせていて、ゆる言語学ラジオを中心としたひとつのカルチャーコミュニティが出来上がっていることを強く感じた。

離脱してタリーズでひと休み。インスタで見ていて行きたかったCakaに行く。店員のお兄さんにスカジャンを誉めてもらって嬉しかった。紘一さまさまである。

そして移動して霞ヶ関で下車、セブンでチケットを交換しサナバの10周年ツアーファイナルを観に日比谷野音へ。G-Freak以来かな?24年に建て替えの話が出ているので、今の野音最後かな、最後がサナバって嬉しいな、となんてことも思った。
入場してグッズを購入。フーディやニットキャップなどは無くなっていて残念だった。軍手とワッペンを購入。缶ビールを買って席に。2列目だった。野音でこんなに近いの初めて。

サナバのおかげで旦那と出会って、何度も一緒にライブ行って、2人で家や車で聴いたりもしたし、とかいろんなことを思い出しながら聴いてた。サナバのライブ観ると元気が出る。

紘一が久しぶりにちょっと調子悪そうだったんだけど、Somebodyでホーンメインのアレンジがあって大河のサックスソロがあって演り終えたあと、2人でそっと拳を合わせている姿を見た。そこから調子も取り戻していて、やっぱホーン隊はこの2人じゃないとなと思った。

あと俊樹が最後のMCで、いつでも戻ってこれるように待ってるからって言ってくれて、Jam goes onのリリックと合わせて目頭が熱くなった。俊樹の誠意あるリリックもまたサナバをサナバたらしめている。

一平、一輝、亮三、ゆうだいはいつも以上にかましていて、安定感があっていつもワクワクさせてくれる最高のプレーヤーだなと思った。亮三、ちょうど正面の席だったけど見えてたかな。覚えてくれてたらいいな。

そして遼ちゃん。平成のショウマン。あなたの存在そのものが私の中に燦然と輝いている。かっこいいなんて言葉じゃ陳腐なほどにかっこよくて、ふざけてて(開演直前にチ◯ポ!って叫ぶなよ!)、やっぱりかっこいい。

ライブ観るといつだってサナバがいてくれてよかったって思うな。ほぼ同い年のメンバーたちと一緒に歳とりながら、ずっと観ていたいよ。これからも、末長くよろしく。

新橋まで歩いて魚金で飲んで帰る。